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イジャスラフ・ウラジミロヴィチ(、? - 1096年9月6日)は、キエフ大公ウラジーミル2世モノマフとギータとの間に生まれた二番目の子である。クルスク公:? - 1095年。ムーロム公:1095年 - 1096年。 1094年、イジャスラフの父のモノマフはチェルニゴフのオレグ(ru)を攻めた。イジャスラフは1095年に、クルスクからオレグの所有していたムーロムへと移った。 チェルニゴフからオレグを追放した後、モノマフとスヴャトポルク2世は、キエフとペレヤスラヴリをポロヴェツ族に襲撃されたが〔國本哲男『ロシア原初年代記』251頁〕、1096年のトルベジュ川の戦いでポロヴェツ族のハン・トゥゴルカンに決定的な打撃を与え〔國本哲男『ロシア原初年代記』252頁〕、ルーシへのポロヴェツ族の進入を止めることに成功した。一方、この機にオレグはスモレンスクで軍勢を集め、ムーロムへと進軍すると、オレグが世襲領地権(ru)を持つモノマフ領のロストフとスーズダリから退くことをイジャスラフに要求した。イジャスラフはロストフ・スーズダリ・ベロオゼロから、ムーロム防衛のための軍勢を集めて戦いに臨んだが、ムーロム近郊での戦闘で死亡した。イジャスラフの妻子に関する記録は残されていない。 なお、戦闘に勝利したオレグはムーロム・ロストフ・スーズダリを占領したが、ムスチスラフとヴャチェスラフ(共にモノマフの子であり、オレグ同様ロストフとスーズダリを世襲領地とする権利を有した。)を長とするノヴゴロド・ペレヤスラヴリ・ポロヴェツの軍の攻撃を受けた。オレグは撤退と講和を余儀なくされた。最終的には、この領土をめぐる紛争は、1097年のリューベチ諸公会議において、ロストフとスーズダリはモノマフの領土、ムーロムはオレグの領土とすることが承認された〔國本哲男『ロシア原初年代記』278頁〕〔アレクサンドル・ダニロフ『ロシアの歴史』93-94頁〕。 ==出典== 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イジャスラフ・ウラジミロヴィチ (ムーロム公)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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